雅子さまにとって、61才はさらなる飛躍の1年になるはずだ(2024年10月、東京・港区。撮影/JMPA)
愛子さまの晴れの場に、雅子さまはいなかった。愛子さまが成人されて久しくても、雅子さまにとって、ただ1人の愛娘であることには変わりない。それでもなぜ、雅子さまは“不在”だったのか──。
12月1日、愛子さまは御所で23才の誕生日の祝賀を受けられた。愛子さまは御所で宮内庁長官や次長、侍従長ら側近からの挨拶を受けられ、心からのお礼の言葉を返された。しかし、雅子さまは祝賀を欠席され、お姿を見せられることはなかった。その2日前の11月29日に都内で開催された「自治体消防75年記念大会」にも雅子さまのお姿はなく、天皇陛下がおひとりで臨席された。
「百合子さまが11月15日に薨去され、雅子さまは当日と翌16日に陛下と三笠宮邸を弔問されました。一般の通夜などにあたる24日と25日にも弔問され、27日には豊島岡墓地(東京・文京区)に足を運ばれて百合子さまの遺骨が納められた墓を拝礼されました。連日のように外出が重なったことで、お疲れがあったのではないでしょうか」(皇室ジャーナリスト)
愛子さまの誕生日から8日後の12月9日には、雅子さまが節目の1日を迎えられる。例年、誕生日に雅子さまは、文書で感想を公表されてこられた。
「かつては記者会見が行われていましたが、2004年以降は文書が発表されるのみに留まっています。療養に入られた直後は文章は大変短いものでしたが、年を追うごとに長くなっています。推敲に推敲を重ねられる雅子さまの“作業量”も増えているようです」(前出・皇室ジャーナリスト)
そのためだろうか、昨年の誕生日文書をめぐっては、こんなシーンもあった。
「当初、誕生日前日にあたる12月8日の昼に、宮内庁担当記者に文書が渡される手はずでした。ところが、実際に記者に届いたのは午後のかなり過ぎてからのことでした。2023年はコロナ禍の行動制限が緩和され、6月のインドネシア訪問や、4年ぶりの那須御用邸でのご静養などがあり、振り返る事柄も多かったのでしょう。加えて、還暦という節目も重なっていました」(皇室記者)