ヒロシマ、ナガサキの体験を基に核兵器廃絶を訴えてきた日本被団協に10日、ノーベル平和賞が授与される。美術や文芸などの分野から識者3人に、受賞の意義について語ってもらった。
大きな力に抵抗 丸木夫妻と重なり
―「原爆の図」を描いた丸木位里、俊夫妻はかつてノーベル平和賞にノミネートされたといわれています。今回の受賞をどう受け止めましたか。
驚いた、というのが率直な感想。真っ先に思い浮かんだのは、被爆79年目にしての実現は遅過ぎるという悔しさ。一方で、被爆の記憶が忘れ去られることにあらがう大事な一歩とも感じる。複雑な思いだ。 丸木夫妻がノミネートされたのは1995年。核廃絶運動史研究の第一人者であるニューヨーク州立大のローレンス・ウィットナー教授(当時)が推薦し、「丸木夫妻の作品ほど、戦争による死と破壊、対極の平和の必要性のイメージを強烈に表現した作品はない」と賛辞を贈った。結果的には吉報は届かなかったが、俊は「候補になっただけでも、大変光栄」と語ったそうだ。「原爆の図」に世界中から関心が寄せられ、夫妻の創作の再評価に大きな影響を与えた。
―2015年「原爆の図」の米国展が首都ワシントン、ボストン、ニューヨークの3会場を巡回しました。現地の反応はいかがでしたか。
「幽霊」(1950年)「米兵捕虜の死」(71年)など6点を展示し、搬入から撤去までの作業に立ち合った。批判的な反響と隣り合わせの展覧会だったが、芸術のもたらす想像力は計り知れないことも実感した。 開幕日、ワシントンのアメリカン大の会場に訪れた94歳の退役軍人が忘れ難い。絵の前で崩れるように座り込み、「私たちもこの絵のようになるかもしれなかった。日本は中国で何をしたのか」と語気を強めた。意外にも翌朝、彼は再び会場に現れた。集中し、絵に向き合う様子は、声をかけるのもためらわれるほどだった。
―丸木夫妻は「原爆の図」の「からす」(72年)で、朝鮮人被爆者の死を描きました。今回、授賞理由に朝鮮半島出身の被爆者について言及がなかったことが指摘されましたが、どう考えますか。
丸木夫妻は被害の記憶だけでなく、忘却されつつあった加害の記憶を呼び起こした。「南京大虐殺の図」(75年)では日本兵による残虐行為を描いた。「唯一の被爆国」という言葉に象徴される日本人の被害者意識を揺さぶった。 それから半世紀の今、社会は何も変わっていない。世界中に「戦争」があり、貧困、差別、偏見といったありとあらゆる暴力が人々を分断している。ひどい状況だと思う。日本被団協の受賞が、日本を含めた各国が自分にとって都合の悪い歴史を直視する機会につながることを、願わずにはいられない。
―美術館の今後について、この機会にあらためて聞かせてください。
2人は40年近い共同制作において、人種や国境の壁を越え、最も弱い人の視点から描く、という姿勢を貫いた。「原爆の図」はこれまで世界20カ国以上を旅して回った。見る人の置かれた社会的状況によって、それぞれの「原爆の図」が存在するだろう。 現在進行形の戦争が起きている。遠い国の人々の痛みに想像力を広げる必要があり、芸術にはその無限の可能性がある。核の脅威を覆い隠そうとする大きな力に抵抗の声を上げ続けた丸木夫妻の生きざまは、日本被団協の活動に重なる。 「原爆の図丸木美術館」は、核を保有することに価値を置く現代社会について、再考するかけがえのない場所だ。ここでしか伝えられないものを守り続けていきたい。(木原由維)
おかむら・ゆきのり
1974年東京都生まれ。東京造形大比較造形専攻卒、同研究科修了。2001年から現職。16年、平和・協同ジャーナリスト基金奨励賞。著書に「非核芸術案内」(岩波書店)「《原爆の図》全国巡回」(新宿書房)など。
原爆の図丸木美術館
1967年、広島市安佐北区出身の水墨画家・丸木位里(01~95年)と、妻の油彩画家・俊(12年~2000年)夫妻が開館。原爆投下直後に広島入りした体験を基に夫妻が共同制作した「原爆の図」全15部のうち、第15部「長崎」を除く14部を常設展示する。「原爆の図」の展覧会を国内各地のほか、米国やドイツ・ミュンヘンなど世界各国で開催。17年、谷本清平和賞を受賞した。
(2024年12月5日朝刊掲載)